2017-10

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個人と孤独と

 法学部卒の僕が何故か時折参加している社会学関係の勉強会にて。
 発表内容を、かなり乱暴に要約すると、「下部構造の変化によって孤独化がもたらされた。そこにおいて、スピリチュアリティや宗教が孤独化解消に役立つことは可能か?」というようなもの。
 収容や富の蓄積、世界の縮小、それと並行する哲学界の「個人の主観を重視する傾向」、それらの結果、価値観など全ては「個人」へと投げ返された、と。そして、その帰結としての「孤立」、そして「孤独」。また、孤独化は、テロルや全体主義の温床にもなるという。

 個人化へと、孤独化へと向かう原因は、様々なのだろうけれども、その流れ自体は理解できる。

 が、そこからの脱出(?)にスピリチュアリティが役立つか、と言われても難しい。何故なら、スピリチュアリティというものが日本では非常に胡散臭いものとなっていること、そして、欧米などで、どんなものなのかというのが分からないからだ。
 どうやら、会合に出席していたCSの有名人上野俊哉氏によると、日本で感じられるようないかがわしさのようなものは無いとのこと。

 そこからの脱却に、宗教・スピリチュアリティがどう関わるかには、僕自身は興味が薄いため、思考はそこで止まり、むしろ、違う方向に思考が向かう。
 思ったのは、孤独化に対する実感はあるのだけど、実は「孤独」というもの自体が、僕らの時代特有の視点・視線に過ぎないのではないか、ということ。
 まず、過去において、個人というものが意識されなかった時代に、「孤独」という概念は分かりにくかったであろう。そして、今、国・宗教・地域が解体されて最小単位は「個人」となっているが、これから先、個人すら最小単位ではなくなるのではなかろうか。
 
 東浩紀氏や、カーニバル化する社会の中で言われる「データベース化」とか斉藤環氏の言う「モジュール化」でもいいのだけど、個人が、情報として、部分部分として存在するかのような感覚が当然となってくるのであれば、最小単位は個人ですらなくなっていき、個人の各々一部は、どこかでネットワークに繋がっていたり、というのは、「孤独」を希薄化していく気がする。
 また、(少し観点がずれるが)心理学化する社会の中で、心理学が普及していくことで、症状が軽症化し、その代わり、軽症者が増えるという事態が起きたと書いている。それと同じような感じで「孤独」という症候も軽症化していくのではないか。「孤独?、あー、孤独かもね」というライトな孤独?・・・・。
 ・・・・まとまらない。
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 本サイト(まぜたま)では書かないような、頻繁な「メモ更新」「ニュースぴっくあっぷ」&読書メモ(「物語」と「一般」に分類)のblog。
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 「はれたま」の日常更新は読ませることを前提とせず、思いつくまま書いているので御注意ください(言い訳)。そもそも、「まぜたま」は読ませることが前提になっているのか?と言われると微妙なんだけど、更新にかけている「時間」は、かなり違います(苦笑)。

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